2006/01/09

BRAVEHEART

今日は"BRAVEHEART"を見ました。これはかなり良かったです。俺って思想的に影響されやすいというか、心の中では結構正義の存在を信じていたい人間なのだと思います。アイデンティティーに飢えているというか。日本人ってそういう考えが希薄だし、あったとしてもあまり公にしないですからね。格好いい仕事をして、いい家に住んで、好きな服を着て、好きな車に乗って、好きなことして・・・と自己中な願望がある反面、自分という個を犠牲にして、公のために何かをしたい、的な気持ちもあるというか。まあ、前者が”願望”で、後者が”憧れ”なんでしょうけどね。ネタばれしないように書くとそんな感じの映画でした。


以前に「特攻隊遺詠集」を読んだことがあります。

・かくすれば国難突破出来るならいかでや軽きわが命かな 渡里修一 十八歳

若さゆえの純粋さと捉える方もいるかとは思いますが、ここまでの心境に至るまでの葛藤を思うと素直に拝みたくなってしまいます。


「英霊の言乃葉」にも特攻隊員たちの遺稿が掲載されています。

愛児への便り 海軍大尉 植村真久 二十五歳 東京都出身

・素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入つたこともありました。素子が大きくなつて私のことが知りたい時は、お前のお母さん、佳代伯母様に私のことをよくお聴きなさい。私の写真帳もお前の為に家に残してあります。素子といふ名前は私がつけたのです。素直な、心の優しい、思ひやりの深い人になるやうにと思つて、お父様が考へたのです。私はお前が大きくなつて、立派な花嫁さんになつて、仕合はせになつたのを見届けたいのですが、もしお前が私を見知らぬまゝ死んでしまつても、決して悲しんではなりません。お前が大きくなって父に会いたい時は九段へいらつしやい。そして心に深く念ずれば必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮かびますよ。父はお前は幸福ものと思ひます。生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちやんを見ると真久さんに会つてゐるような気がするとよく申されてゐた。またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一の希望にしてお前を可愛がつて下さるし、お母さんも亦、御自分の金生涯をかけて只々素子の幸福のみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあつても親なし児などと思つてはなりません。父は常に素子の身辺を護つて居ります。優しくて可愛がられるひとになつて下さい。お前が大きくなつて私の事を考へ始めた時に、この便りを読んで貰ひなさい。

昭和十九年○月吉日 素子へ 父

追伸、素子が生まれた時おもちやにしていた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ます。だから素子はお父さんと一緒にゐたわけです。素子が知らずにゐると困りますから教へて上げます。



人生二十年 海軍大尉 牧野 二十三歳 石川県金沢市出身

・出撃の日、御父上様、御母上様、人生わづか五十年とは昔の人の言ふ言葉、今の世の我等二十年にしてすでに一生と言ひ、それ以上をオツリと言ふ。まして有三年も永生きせしは、ゼイタクの限りなり。いささかも惜しまず、笑つて南溟の果てに散る。また楽しからずや。金沢の備中町、材木町小学校の頃、一月おきくらいに病気をして弱かつた頃、また千葉の家の前のグミの実など、潮干狩りのこと、新潟の永き思ひで------明大に於ける生活、下宿、岐阜のこと、寺の娘、釣りのこと、いろいろと断片的に思ひ出されなつかしく、目を閉ずれば眼前に浮かび上がります。ただただ御両親様の御健康を祈るのみ。御父上様の御病気(何でもこはす短気病)は今後お慎み下されたく、御母上様の御心痛察するにあまりあり。--------一緒に死ぬのは斉藤幸雄一等飛行兵曹とて、二十一歳の少年?かはいい男です。なぜか私をしたつて大分前から一緒に飛んでゐますが死ぬのも一緒です。---------出撃の朝、散歩に行くやうな、小学校の頃、遠足に行くやうな気持ちなり。〇三〇〇朝めし。すしを食つた。あと三時間か四時間で死ぬとは思へぬ。皆元気なり。


死の直前に書いた特攻隊員たちの文章はこのような明鏡止水の趣のものが多く、ただ家族が悲しむことだけは随分気にかけている。また、二十代の若者の純粋性ゆえか自らの死の意義を信じて揺るがない。


「今日われ生きてあり」神坂次郎著の中に、特攻隊の世話係をつとめていた当時知覧高女の生徒だった女性のこのような談話があります。

・日本を救うため、祖国のために、いま本気で戦っているのは大臣でも政治家でも将軍でも学者でもなか。体当たり精神をもったひたむきな若者や一途な少年たちだけだと、あのころ、私たち特攻係りの女子団員はみな心の中でそう思っておりました。ですから、拝むような気持ちで特攻を見送ったものです。特攻機のプロペラから吹き付ける土ほこりは、私たちの頬に流れる涙にこびりついて離れませんでした。三十八年たったいまも、その時の土ほこりのように心の裡にこびりついているのは、朗らかで歌の上手な十九歳の少年航空兵出の人が、出撃の前の日の夕がた「お母さん、お母さん」と薄暗い竹林のなかで、日本刀を振り回していた姿です。------立派でした。あンひとたちは・・・・。


特攻を100%否定的にしか捉えない人も多いのではないでしょうか?たしかに人としては”外道”の作戦でしょうね。戦争当時、海軍報道班員であった山岡荘八氏は海軍の鹿屋基地に配属されたときに一人の特攻隊員に次のことを質問したそうです。「この戦を果たして勝ち抜けると思っているのか?負けても悔いはないのか?今日の心境になるまでにどのような心理の波があったかなど・・・・・」それに対する西田中尉の答えは以下のようだったそうです。

「学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです・・・・・・・おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに・・・・・・・」



また、戦艦ミズーリでの降伏文書調印の際に立ち会った加瀬俊一氏をネットで検索していて見つけたのが以下の文章です。

Kase wrote that while on the American battleship he had noticed many miniature Rising Suns, "our flag," painted on a steal bulkhead, indicating the number of Japanese ships, submarines, and planes sunk by Missouri. He had tried to count them, but "lump rose in my throat and tears quickly gathered in my eyes, flooding them. I could hardly bear the sight. Heroes of unwritten stories, these were young boys who defied death gaily and gallantly......They were like cherry blossoms, emblems of our national character, swiftly blooming into riotous beauty and falling just as quickly." According to members of the imperial household, the emperor lingered over this passage a long time; then he signed deeply, and murmured, "Ah so, ah so desuka."


(俺訳)・・・間違ってたらすみません。
・加瀬は米艦の壁に多くの小さな旭日旗”わが国の旗”が描かれているのに気づいた。それらはミズーリによって沈められたり、撃墜されたりした日本の艦船、潜水艦、航空機を示すものだった。彼はそれを数えようとしたが、突然胸に熱いものがこみ上げてきて、目に涙が溢れ、こぼれ落ちた。それは見るに耐えられぬ光景だった。無名の英雄達、彼らは勇敢に華々しく死んでいった年端もいかない若者だった。彼らは我が国の象徴、桜の花びらだったのだ。あふれんばかりの美しさでパッと咲き、あっという間に散っていく桜の花びらだったのだ。天皇の侍従によると、昭和天皇はこの文章を長い間読み返していたという。そして、深くため息をつき、静かに呟いた、「ああ、そう。ああ、そうですか。」と。


我々は彼ら無数の英雄達からこの国を引き継いでいる。何も考えず享楽的に暮らすのは彼らに対する罪であると思う。死んでいった若者達は恐怖と未練を無理やりに押し込め、愛するものを守るため、将来の日本の礎になるために大きな時代のうねりの中に身を投じた。今の俺よりも若い、そのまま生きていればその先何十年もの人生を家族とともに送れた若者達だ。


彼らからこの国を引き継いだ我々には責任と義務があるのだ。